牛窪地蔵尊:笹塚の処刑場跡地(渋谷区幡ヶ谷)

土地の価値

東京都渋谷区幡ヶ谷。甲州街道と中野通りが交わる笹塚交差点のすぐ脇に、地蔵尊が祀られた一角があります。このあたりは、江戸時代初期まで罪人の処刑場があったとされ、それにまつわる地蔵尊なのです。

牛窪地蔵尊の由来

牛窪地蔵尊はどこにある?

牛窪地蔵尊は、甲州街道(国道20号)沿いの京王線の笹塚駅と幡ヶ谷駅のほぼ中間にあります。住所は、東京都渋谷区幡ケ谷1丁目10−7。甲州街道(国道20号)と中野通り交差点の南東側、雑居ビルの間に牛窪地蔵尊はひっそりと佇んでいます。

昭和45年(1975年)の甲州街道の拡張により、約18メートル後方に移転され、今の場所に移設建立されたそうです。

笹塚交差点からの牛窪地蔵尊
中野通りから笹塚方面へ向かう途中。雑居ビルの間に牛窪地蔵尊は佇む(写真内の自動販売機の左)。

牛裂の刑

江戸時代初期は、法整備が進んでおらず、戦国時代以来の見せしめの意味も込めた「釜茹(かまゆで)」や「牛裂(うしざき)」といった残酷な処刑法が行われていました。徐々に法整備が進み、江戸中期には「公事方御定書」により処刑のルールが定められます。

牛窪地蔵尊は、正徳元年(1711年)に建立されました。この笹塚は極悪人の刑場として牛を使った最も厳しい「牛裂の刑」が行われる酷刑場があったと伝えられています。「牛裂」は罪人の手足を二頭ないし四頭の牛につなぎ、牛をそれぞれの方向に走らせる処刑法です。

この牛を使った酷刑が行われ、窪地でもあったことから、「牛窪」の地名となったと言います。

江戸時代の人々は、疫病の原因を怨霊のたたりと考えました。

宝永から正徳(1704年から1711年)にかけて、牛窪に悪疫病が流行した際、これが牛裂によって極刑された罪人の祟りだと伝えられ、子どもの安寧を守る身代地蔵として地蔵尊を祀り、霊を慰めたといいます。(この頃、はしかが全国的に流行し、徳川綱吉も感染により死去しています)

また、牛窪地蔵尊の傍らには道供養塔が置かれています。これは、享保9年(1724年)に、甲州街道から中野通りの道しるべとして、旅の途中で行き倒れが多く篤志家により、建てられたものだとのことです。

牛窪地蔵尊にまつわる事件?

その歴史的経緯から、牛窪地蔵尊は心霊スポットとしても知られています

牛窪地蔵尊のすぐそばの「笹塚交差点」は、交通事故の多発エリアです。甲州街道(国道20号)と中野通りが交わる笹塚交差点は、昼夜問わず交通量が多く、国道20号から中野・北沢方面への右折・左折時に、横断歩行者との人身事故が起こり、平成20年(2008年)には事故発生件数が最多でした。

2021年には、笹塚駅近くの甲州街道沿いで、タクシーが暴走し、横断歩道を渡っていた歩行者6人を跳ね飛ばす惨劇が引き起こされました。

笹塚交差点
笹塚交差点。高架下で柱があるため、対向車線の車、歩行者が見えづらい。

牛窪地蔵尊の心霊現象や呪いによるものではないかという人もいるようですが、甲州街道(国道20号)から新宿方面は緩い下り坂になっており、車両のスピードが出やすいこと、甲州街道の真上は高速4号新宿線が走り、交差点はその支柱などで対向車線が見えづらいことが、理由として挙げられるでしょう。

また、2006年の年末に口論から兄が妹を切断して殺害した通称「渋谷区短大生切断遺体事件」は、牛窪地蔵尊と同じ甲州街道沿いの渋谷区幡ヶ谷のマンションが殺人現場でした。バラバラ殺人事件というその猟奇性から、牛窪地蔵尊の心霊現象と結びつける人もいるようです。

2020年には、牛窪地蔵尊すぐ近く、甲州街道の幡ヶ谷原町バス停のベンチに座っていたホームレスの女性が、石などの入ったポリ袋で殴り、死亡させる事件も起きています(渋谷ホームレス殺人事件)。

筆者は心霊現象を特に信じていません。しかし、笹塚駅から幡ヶ谷駅にかけての甲州街道沿いは、高速4号新宿線の高架下であり、日中でも見通しが悪く、駅近くの大通りにしては少し暗い雰囲気があります。

牛窪地蔵尊の歴史的背景や偶然起こってしまった気の毒な事件と甲州街道の高架下の雰囲気などが組み合わさった結果、心霊現象の話が出やすいエリアになったように感じます。

まとめ

以上、笹塚と幡ヶ谷の間にある牛窪地蔵尊について紹介しました。

牛窪地蔵尊は、かつてあった刑場の祟りを祀り、慰めるためのものでしたが、江戸時代の刑場は、品川区南大井や荒川区南千住など、都内でもいくつか史跡として残っています。この夏、当時の歴史を知るために、訪れてみてはいかがでしょうか。

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