杉並区の今川に処刑場は江戸時代にあったのか?

杉並区今川 土地の価値

杉並区の今川の由来は、室町・戦国時代に駿河・遠江国を支配した大名の「今川氏」に由来します。この杉並区の今川に処刑場がかつてあったという噂があるようなのですが、本当なのでしょうか?

杉並区今川

今川は、杉並区の北部、環状八号線の西側から青梅街道の東側までの一帯です。JR中央線と西武新宿線のちょうど中間あたりのエリアです。

杉並区今川の地図
杉並区今川

「今川」の地名は、室町・戦国時代に駿河(静岡県の中央部あたり)の一帯を領地とした今川氏に由来します。1560年、大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元を織田信長が奇襲により破った桶狭間の戦いで、今川氏を知る人も多いでしょう。

戦国大名としての今川家の滅亡後、儀式や典礼を司る高家として江戸幕府では代々の将軍に仕えました。その幕府から知行所(領地と農民を旗本が支配する権利を与えられた土地)として与えられたのが、上井草、下井草などの一帯でした。1932年に、後ほど紹介する「観泉寺」周辺が杉並区に編入される際に、今川の地名が使われるようになりました。

今川氏の菩提寺「観泉寺」

その今川氏の支配の中心となったのが杉並区の今川にある「観音寺」です。観泉寺の境内には、今川氏の歴代当主や一族出身の女性、子どもたちの墓碑が残っています

簡素な造りであるものの、落ち着いた緑の美しい境内は荘厳な雰囲気を漂わせます。参道の右手側にある竹林は、京都の嵐山を思わせる見事なものです。

観泉寺の境内
杉並区今川にある観泉寺の境内
観泉寺門前の
観泉寺の正門のの横にある石碑。「都旧跡の今川氏類題墓」と彫られている

今川義元から三代目の義房が、この観泉寺を今川家の所としました。観泉寺は、今川氏の所領支配の中心として年貢の徴収や裁判での拠点となり、寺の門前で裁判なども行われていたとされています。

上井草村などから今川の屋敷に奉公に出ていたものがとがめを受けた場合は、観泉寺の住職が放免を働きかけたり、厳しい年貢の取り立てに対する農民の訴えに対する仲介となるなど、今川氏と上井草村の農民の間を取り持つような役割も担っていたようです(観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』)。

明治維新後、今川氏23代目、最後の当主、今川範叙の困窮を見かねた観泉寺の住職は、知行地であった今川で範叙の助成金を募るなど、最後まで関係が深かったことが伺えます。

今川氏の歴代当主や一族出身の女性、子どもたちの墓碑
今川氏の歴代当主や一族出身の女性、子どもたちの墓碑。写真の右から3番目、4番目は今川氏真夫妻の墓。

杉並区今川に処刑場は江戸時代にあったのか?

江戸時代に、杉並区今川の観泉寺で裁判が行われていたということは、厳しい処分が下された場合もあったわけです。江戸時代の極刑は「死刑」で、単なる死罪の場合(死罪以外にも、獄門、磔、火刑、鋸挽などの段階があった)は、牢舎やその他の場所で行われたようです。

そのため、裁判が行われていた観泉寺周辺に処刑場があったとしてもおかしくなさそうです。杉並区の今川の処刑場跡についてネット上で言及されているサイトを読むと、処刑場跡として杉並区今川の上井草三丁目交差点を紹介しているのですが、何を根拠にしているのかがわかりませんでした。

上井草三丁目交差点
上井草三丁目交差点

筆者も、観泉寺境内の案内板や関連資料に目を通してはみましたが、処刑場跡に関する記述は見つけることができませんでした。もちろん、言い伝えなどで知られているのかもしれませんが、筆者の理解では噂の域を出ていないように思います。何かわかったことがあれば、追記したいと思います。

まとめ

以上、杉並区今川の処刑場跡の噂について見てきました。文中で紹介した「観泉寺」は、なかなか風情のある境内です。今川氏の墓もありますので、歴史好きの人は、訪れてみてはいかがでしょうか。

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